その6 '03年3月

修習と離欲

ヨーガ・スートラ第一章より《自訳》
12 その(心のはたらきの)制止は、修習と離欲による。
13 修習とは、そこに静止するための努力のことである。
14 しかるに、それは長いあいだ不断に注意深く実行されるならば、堅固な基礎を作る。
15 離欲とは、見たり伝え闘いたりずる対象に対して無欲になった人のもつ支配の意識である


去年('02)の6月から、サンスクリット語のクラスに飛び入りして、4月から参加している方々になんとか追いついて勉強し始めました。そして12月の初めから、ヨーガ・スートラの原文の読解に取りかかりました。デーヴァナーガリー文字の表記とローマナイズされた複数の文献とを照合して、ローマ字変換を確定し、個々の語彙を複数の辞書で引きながらその文法的な形態と意味を調べ、複数の注釈書を参照しながら読解を進めていきました。翻訳が完了したのは正月明け。年末にはこのHPの更新もこなさなければならず、いま思えば、ずいぶん集中した作業でした。

このページの3回目で、「『心の止滅』と定義されるヨーガと、自らの生の糧としたいヨーガとが、自分の思い込みでなく、すんなりとストレートにつながるように、理解を深めていきたい」と述べました。教典では「心の」ではなく、「心のはたらきの」でしたし、また、「止滅」すなわちニローダの意味には「制御」のニュアンスも含まれ、「制止」という訳語が相応しいと分かりました。これだけでも大違いですが、一語一語を咀囎しながら原文を自分で読んでみたことで、たいへんな成果が得られました。去年の秋、教典の読解を始める前に、ラーマクリシュナやラーマナ・マハーリシの伝記や彼ら自身の言葉、ポール・ブラントンの『秘められたインド』などを次々とむさぼるように読みましたが、ヨーガに生きた聖人たちの姿と教典の内容が、私のなかで加速度的に重なり始めました。いまだ明確には表現し得ないながら、私なりのヨーガの理解と実践につながる確かなものが、教典の記述のなかに見つかってきた気がしています。

ラーマナ・マハーリシが「私は誰か」という問いを自らのヨーガの第一義としたように、ヨーガは自分探しのメソッドです。外から入力されたリ記憶として刻み込まれたりしたものの影響を受け続けている心のありようを、そのまま自分自身だと思い込むことからの解放を、ヨーガは目指しているのです。

私たちは、さまざまな習癖に染まりながら日常を過ごしています。アディクションと呼ばれるものに限らず、心身に刻みつけられていて気づきもしない習癖がどれほど多いことでしょうか。人格と呼ぱれるもののほとんどがそれであるならなんとなさけないことでしょう。先日、タバコは気持ち良くやめられる!禁煙呼吸法実践ビデオのサイトからリンク依頼がありました。実は、私自身、タバコとお酒とは長年ずいぶん仲良しでした。呼吸法を用いることはとてもいいと思いますが、私がタバコを止めたのはこのビデオが出るよりだいぶ前で、なんの意図的な努力もな<、ふと小さく気づいたままに自然に止められたのです。遅れて止めたお酒に関しても同様でした。ずうっと続いてきたものにほんのわずかな隙間が見つかってそこでポンと抜け出せたという感じでしょうか。大きく構えて努力したり、この一瓶がなくなったらもう買わないようにしようと決めたりすると、自分のなかで反動が生まれます。心と心とのだまし合いがある限リ、いい成果は得られません。一瓶あるいは一箱の途中、いえ一杯あるいは一本の途中でふとできる時は本当に自分自身の確かな行動となり得るのです。

心のはたらきの制止は修習と離欲によると、教典では記されています。心のはたらきには、煩悩的なものとそうでないものとがあるということですが、煩悩的すなわち自分の足を引っ張るものだけを考えてみても、長年の習癖を取り除くには、心理学の行動療法のように、繰リ返し繰リ返し訓練していく必要があるでしょう。またそれに、離欲が付け加えられていることがとても重要です。欲を禁じるのではなく離れるのです。対象に対する執着がふと途切れた時に感じられる解放感を、ほんの一瞬でも雑音を交えずに味わうこと、修習はそのためのトレーニングだと理解してもいいでしょう。その意味で、私はヨーガで禁煙・断酒できたのです。

もちろん、アーサナをおこなう際にも、修習と離欲は大切です。修習により、習慣的な身体の使い方が変化し各部位のつながりがよくなり、心理面との連携もよりスムーズになります。離欲としては、まず何に効くアーサナだとかは考えないこと。アーサナを行じるときは、気づくこと味わうことが大切です。皆さんもぜひ、<鋤のポーズ>で胎内回帰を味わってみて下さい。それこそやみつきになるかもしれませんが…。

                        ミーナークシー(ヨーガあざな)