
★父の遺文
引っ越してからいつの間にか1年3ヶ月、このページの前の更新から8ヶ月も経ちました。その間いろんなことがあったのですが、更新が遅れた言い訳を兼ねてひとつだけ書くことにします。実はこの数ヶ月、ある文書の活字変換に携わっていたのです。それは20年以上前に父が読んでくれと預けた『書き遺す事ども』という表題の冊子です。まだ存命中の人の遺書を読む気にもなれず、それから9年後に80歳で交通事故で亡くなった後もかえって開きづらくなっていました。やっと手にとる気になったのは2年ほど経ってからでしたが、読み始めるやいなやぐいぐい引き込まれ夢中でページを追いました。長男である私の弟に向けた内容で、自身が父親(祖父)の享年に至ってその晩年の孤独な姿を思い起こし、生前ろくに語り合わなかったことを悔やみ、同じ状態の息子との間を埋めたくて執筆を思い立ったとのこと。本人に渡した手書きの原本をコピーして綴じて母と私に渡したようですが、夫が亡くなり母との交流が深まった今になってこれを活字に直すことを思いつき、母も希望するので昨年末から取りかかりました。父の字は達筆ながら癖があり、古い言い回しが多々用いられ、推敲なしに書き飛ばしていて分量も多く、予想外に手間取りました。その間、諳んじられるほどに読み返すうちに、なんだか自分の字のような気さえしてきて、こめられた想いがじわじわと伝わってくるように感じられました。
そこには、大阪の大きな製餡所の8人兄弟の長男に生まれた父が、商いに向かない性格に悩み数々の苦渋を潜ってきた遍歴が生々しく記されています。袴を穿いて小学校に通った時代から兵役時代まで、人より上に立ち人にも信頼されてきて、ずっと80点を続けてきたという父は、自分の性格を内閉的と称し、文学そして哲学や宗教への傾倒を熱意を込めて記します。そのなかには、私の愛読した作家の名が幾つも並びます。農業に憧れて鹿児島農林学校に入ったこと。在学中、当時隆盛だった倫理思想に傾倒したこと。卒業後、商売の後継ぎから逃れようと家出して仏教奉仕団に入ったこと。見つけ出され、「商売は継がずとも」と口説かれて連れ戻され、「親には背けないが、両親を見送った後に自分本来の好きな道を探そう」と決心し、その為に妻帯はすまいという覚悟のしるしに左足の小指を切り落としたこと(太宰治の小説がヒントかもしれません。子供の頃の私には敵弾にやられたと言っていました)。ページを追う毎に、遠い時代のセピア色に泥んだ映像が次々と浮かびます。ただ、スマトラへの出征と捕虜生活は、かえって命の洗濯ができた時期のようで、南国の色鮮やかな風景が彷彿とします。帰還して戦後の混乱のなか、親のあとを継いで商売を始めてからは苦難の連続。私のおぼろげな記憶と重なるのは、戦災の焼け残りを改築した煉瓦造りの家。隣の区への引っ越し。突然の難聴の始まり。工場の火事。家中一杯に貼られた差し押さえの赤い紙。脊髄腫瘍によるひどい腰痛と入退院の繰り返し。名前を見ると思い出す何人もの人々…。
手術後の回復と商売の好転で半生記を締め括ったあと、自身の性格や考え方や信念などについて述べるなかで、息子に伝えたい残したい心情を吐露します。家族との一体感を求めつつも充分に満たされなかったという思いがその文面に満ち溢れます。母親(祖母)は女傑といわれたほどの人で、おとなしい性格の父親に代って製餡所を切り盛りし、長男である父をこの上なく尊重し頼りにしてはいましたが、温かな家庭を営むことには不向きだったようです。育った家庭の暗さに何度も触れ、家庭はもっと明るくなければならないと繰り返します。小指の誓いから心機一転して入隊を控えつつ結婚し終戦後営んだ自分の家庭もまた理想通りには行かず、息子(私の弟)にも、ただずっと静かな父親として距離を置いて接していました。生物学・医学とマスターした理科系の学者である弟より、若い頃から文学に傾倒し哲学・宗教にも心惹かれる私の方が父の性格を受け継いでいるようです。浪人時代に西式健康法やベンネット法や登山で身体を鍛え、参禅で心を鍛えたという記述にも、結婚後ヨーガに目覚めた私との類似が見いだせます。戦後のベビーブームに生まれ、受験戦争を勝ち抜いて入った大学の学園紛争でボロボロに価値観を喪失した時にわが夫と出会い、中退して家出同然で結婚した自分の姿と、父の青春時代の有り様とに近いものがあったこともひとつの発見でした。でも、家庭生活に関しては、父の無くなった小指の先から生まれて来た(?)私は、より恵まれていたようで、夫が風変わりな自由人だったおかげか、貧乏ながら風通しのいい明るい家庭が築けたと思っています。
「そんな者が商売人の人生を送ることは、ブレーキのかかった儘の自動車を走らせているようなものだ」と、あきらめて進んだ道の苦しさを表現しながらも、戦後の混乱のなか商売を復興して会社を設立し、親や弟や妻や子や何人もの血縁や大勢の雇い人を背負って苦難の連続を乗り切ってきたなかで、父は自らの人生哲学を見出したようです。変更不可能なことに心を痛めるのでなく、与えられた運命や過去の事柄から展開されていく今後をどうするかが大事だと不利な点までも活かすことの大切さを説き、「世間で何らかの仕事をしている人の80%は必ずしも自分に適した仕事、好きな仕事でもないものに従事して家族の生活を支えているだろうが、イヤイヤでなく、天命だと甘んじて受け入れてしまうと、何らかの興味も湧き、成績も向上する。今になってそういう心境に達した」と語ります。
結婚して東京に行ってしまい子育てに懸命だった私は、身近で様子を見ることができませんでしたが、父は、その後会社を人に譲ってから、パソコンを(まだほとんど普及していない時代に)独習で覚えて難聴者の仲間との通信を楽しんだり、天然水の研究をしたり、頻繁に海外に出かけ懐かしいスマトラにも何度か訪れたりと余裕のある生き方を見せていたそうです。「両親を見送った後に…」というかつての夢を晩年になって実現し得たようです。
先日、印刷して製本機で綴じたものを2部、母に送り弟にも渡してもらいました。母は読みやすくなったと喜び、涙しつつ何度も読み返したと申します。父は何十年にもわたって日記をつけており、母はこの手記以後のことをそれから抜粋してまとめたいとも言い出しました。また、新たな活字変換の仕事を依頼されそうです。
いわば20年前の宿題を片付けたことになりますが、放送大学に入り30年前に投げ出した学業の続きに取り組んだのも、修士課程で『ヨーガ・スートラ』を研究したのも、やはり古い宿題の片付けでした。昔読み損なった文学作品をひとつずつ読んでいるのも同様。ボート漕ぎ風に後ろ向きで水を押しつつ背中で進んでいるみたいで、前向きでさっそうと水を掻き分けて進むのとは大違いですが、進んでいることに変わりはないつもり。古い宿題(というより長期取り置きのお楽しみ)は、まだまだ残っていますが、もうそろそろ、新しい宿題もこなさねばなりません。アーサナ・コメンタリーの更新には近々取りかかりますので、もう少しお待ち願います。
ミーナークシー(ヨーガあざな)