その10 '04年5月

ご報告に代えて

「このページの次の更新時に、どのようなご報告をするのか、今の私にはまったく予想がつきません。」とこのページに書いたのは4月17日でした。5月に入ってから、そのご報告をしようと何度も画面に向かってはみたのですが、まったく作業を進めることができません。そこで、先日私が書いた一文を次に引用して、ご報告に代えたいと思います。後日(来月?)あらためて、ゆっくりとご報告させていただきます。

                         ミーナークシー(ヨーガあざな)

御礼

フォトドキュメンタリスト、オーディオ研究家、酒の研究家、発明家など多くの顔を持ち、映画やビデオの制作等に関わり出演もしたほか、諸々の仕事や趣味にたずさわってきました。このような人間ゆえ多方面の方々との交流は当然ながら、朝倉俊博が皆さまにかくも息の長いお付き合いをいただいたことは、たいへんありがたいことでございました。

 それぞれの活動面では、野豚の会、流民通信社、あずる工房、二日酔い研究所などという組織の代表と自称しておりましたが、何を隠そう、すべて本人一人だけのいわば架空の組織でした。『流民烈伝』に、一番気に入っている職業名はルンペン稼業だと書いていますが、集団や組織の一員ではなく、自分の個性の趣くままに裸一貫でしか生きられない性向は一生涯変わりませんでした。だからこそ、お一人お一人とのつながりがことのほか大切で、ともにいい音楽を聴いたりおいしいお酒を呑んだりすることが心底好きでした。

 みそなめて晩飲む焼酎に毒はなし すすけかかあに酌をさせつつ (焼酎礼賛の碑の狂歌)

 …すすけかかあとしましては、もっとずっと長く酌をしてやりたかった。元旦の緊急入院後すぐに気管切開を受けて話せなくなり、1月末からは飲食を禁じられ、点滴栄養だけで味噌も舐められずにいました。食べることにも人一倍こだわる人でしたので、「せっかくいただくんですから」という口癖がとても痛く思い出されます。

 
酒の無い国へ行きたい二日酔い また三日目に帰りたくなる(古典落語の狂歌)

 二日酔い無い国行った酔っぱらい また三日目に帰ってこい(すすけかかあの返歌)


 …けれど、行かせてやるしかありません。最後の顔には、これですべて終わったという安堵が見えました。不思議とモルヒネの必要なほどの痛みは無かったとはいえ、辛い戦いでしたから。

1993年に食道癌で亡くなった先輩の映画監督 大和屋竺氏を偲ぶための曲だと、開封もせずに大事にしまっていたCDが、ショスタコーヴィッチ『弦楽四重奏第15 番変ホ短調作品144』。監視室に移されてから本人に内緒で病院に運んでおりましたが、呼吸が止まってから枕もとでかけ始めました。安らかに閉じられた左の目元に、いつしかうっすらと涙が滲み、俺のTHE ENDマークを受け止めてくれよなとその涙は語っているようでした。

 ただ、ゴーゴーと吹き荒ぶ風の中にじっと身をさらしていたい、そう思って旅に出ただけだったのかも知れない。(『流民烈伝』あとがき冒頭)

 『流民烈伝』の副題は、=風のなかの旅人たち=。流民とは、「からだの中に風が吹いている人々」だと表現し、「風」に吹かれることへの想いが、あとがきに満ちています。からだに風を通さない硬い石になるよりも「風」に舞う自由な粉になる方が、そんな彼には相応しい。彼が去年一人で行きたいとふと漏らしていたところで、大きな木々の体内に吸い込まれて「風」に吹かれるようにしてやりたい。そのように思っております。

35年間ともに営んできた貧乏ながらも楽しい家庭で4人の息子たちが生まれ育ちました。このお別れ会の形式は、本人の性格にというより我が家の雰囲気に合わせたと言い換えていいかもしれません。(中略)いま、多くの子どもたちが親に虐待されて不幸な目に遭っていると聞きます。息子たちの支えのありがたさが身に沁みる今、なんとかそんな子どもたちが優しく頼もしい人間に育つようになって欲しいと思います。
(後略…この後の記述は参列者へのお断りなので省かせていただきます。)

以上、溢れる思いを制しきれず、ご列席の御礼を充分に申し述べられませんが、どうか皆さまがたには、お一人お一人のお気持ちのままに旅立つ者を見送ってやっていただければ幸いです。本当に、ありがとうございました。

                         俊博のすすけかかあ 朝倉憲子